6.失業率 31.2%(2003年)、27.8%(2004年)、26.7%(2005年) 7.総貿易額 (1)輸出 517億ドル(2005年) (2)外為輸入 551億ドル(2005年) 8.主要貿易品目 (1)輸出 金、希金属、鉱物製品、化学製品、食品、繊維製品、ダイヤ (2)外為輸入 機械、自動車類、化学製品、科学機器、繊維製品、プラスティック、ゴム 9.くりっく365主要貿易相手国 (1)輸出 日本、英、米、独、蘭(2005年) (2)輸入 独、中、米、日本、英(2005年) 10.通貨 ランド(Rand) 11.ワラント為替レート 1米ドル=6.2ランド(2006年3月) 12.経済概況 (1)南ア経済は、19世紀後半に不動産投資ダイヤモンド、金が発見されて以降、鉱業主導で成長し、これによって蓄積された資本を原資として製造業及び金融業が発展していたが、近年ではかつての主力産業であった鉱業(1990年の対GDP比9.7%)の比率が減少を続けている一方、金融保険(1990年の対GDP比は14.5%)の割合が拡大している。2001年のGDP部門別内訳は、第一次産業10.0%(農業4.2%、鉱業5.8%)、第二次産業26.5%(製造業20%、エネルギー3.4%、建設業3.1%)、第三次産業63.5%(商業13.7%、運輸業10.9%、金融保険業19.6%)であり、先進国同様、南ア経済は第三次産業の割合が高くなっているが(63.5%)、貿易構造は依然として一次産品依存型で、鉱物資源輸出への依存が依然として高い。なお、輸入では先進国からの機械類の比率が高い。 (2)1997−1998年には内需の縮小と世界経済の低迷の影響から南ア経済は停滞したが、1999年に入ると景気は回復し始めた。しかし、2002年以降、南ア経済は高金利とランド高に苦しみ、成長率は鈍化傾向。南ア準備銀行は2003年に5.5%の利下げを実施し、プライムレートも11%まで下落したが、ランド高(1ドル=6〜7ランド)は是正されず、輸出産業の業績悪化により、2003年の経済成長率は、前年の3.6%を大きく下回る1.9%(1998年(0.8%)以降で最低の伸び)まで落ち込んだ。しかし、景気の低迷は、2003年第2四半期で底を打ち、その後金融政策の大幅な緩和もあり、内需が回復し、2004年の経済成長率は、3.7%となっている。 (3)南アは、1996年に金融政策・貿易の自由化、財政の健全化、諸規制の撤廃を掲げたマクロ経済戦略「成長・雇用・再分配(GEAR)」を策定し、以後、自由化による経済成長路線を歩んでいる。現在でも経済政策の基本はGEARであるが、医療福祉、中小企業振興等への財政支出の増加等も強化している。他方、失業は依然として大きな社会問題となっており、1997年の21%以降、20%を越える高い水準で推移しており(2004年は27.8%)、人種間の格差が大きいのが特徴。 (4)ムベキ大統領は2005年2月の施政方針演説において、経済成長目標(10年以降6%台の経済成長、14年までに失業率を半減すること)を達成するための「経済成長加速化戦略(ASGISA)」の策定に言及した。ASGISAでは、成長の阻害要因として熟練労働者不足、高い輸送費用等を指摘し、その解決策として教育・能力開発やインフラ整備などを挙げている。 <外務省> 投稿時刻 19:43 経済 | 個別ページ | コメント (0) 外交・国防 1.外交 (1)1994年5月の全人種参加型選挙によるマンデラ政権誕生後、同年中にアフリカ統一機構(OAU)及び南部アフリカ開発共同体(SADC)への加盟、英連邦への再加盟を果した他、国連総会の議席を20年振りに回復。 (2)基本的外交方針は、(イ)南部アフリカ及び他のアフリカ諸国との政治的連帯及びSADC等を通じた経済的協力関係の強化、(ロ)国連等の国際機関を通じた平和・民主主義・人権擁護への貢献の重視、(ハ)政治・経済・開発等の重要分野における欧米諸国や日本とのこれまでの協力関係の維持・発展、(ニ)アジア諸国や中東諸国等との新たな経済関係の強化。 (3)南アは、アフリカ地域のリーダーとして外交面でもリーダーシップを発揮しており、コンゴ(民)、コートジボワール、スーダン、及びブルンジにおける紛争解決や平和の定着にも積極的に取り組んでいる。また、2002年8月〜9月には持続可能な開発に関する世界首脳会議(WSSD)の開催国となった。 (4)ムベキ大統領は2000年の九州沖縄サミット以降G8首脳と途上国首脳との対話に毎年出席しており、アフリカのみならず、広く途上国の代表として行動している。 2.軍事力 (1)兵役 志願制 (2)兵力 常備軍 55,750人 (陸軍36,000人、海軍4,500人、空軍9,250人) 非常備軍 約68,000人 <外務省> 投稿時刻 19:42 南アフリカ共和国データ | 個別ページ | コメント (0) 政治体制・内政 1.政体 共和制 2.元首 3.議会 二院制(全国州評議会90名、国民議会400名) 4.政府 (1)大統領 ターボ・ムヴィエルワ・ムベキ大統領 (2)副大統領 プムズィレ・ムランボ=ヌクカ副大統領 (3)外相 ンコサザナ・ドラミニ=ズマ外相 <外務省> 投稿時刻 19:41 南アフリカ共和国データ | 個別ページ | コメント (0) 一般事情 1.面積 122万平方キロメートル(日本の約3.2倍) 2.人口 4,483万人(2003年:南ア国勢調査) 人口増加率1.2%(2002年:世銀) 黒人(79%)、白人(9.6%)、カラード(混血)(8.9%)、アジア系(2.5%) 3.首都 プレトリア 4.民族 黒人、白人、カラード、アジア系 5.言語 英語、アフリカーンス語、バンツー諸語(ズールー語、ソト語ほか)の合計11が公用語 6.宗教 キリスト教(人口の約80%)、ヒンズー教、イスラム教 (外務省サイトから引用) 投稿時刻 19:39 南アフリカ共和国データ | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0) 気候 南アフリカ共和国 の 気候 夏期は10月から3月、冬期は5月から8月である。地域による差はあるのだが、一年を通じて気候は比較的温暖で日照時間が長い。 しかし、海岸部以外は高地なため同緯度の国に比べやや気温は低い。国全体の平均気温は、冬が0度から15度、夏が20から40度と差が大きい。内陸高地の冬の気温は0度以下になることもあり、ドラケンスバーグ山脈のような高い山の山頂では降雪もある。東部の海岸は高度も低く、暖流のモザンビーク海流が流れているために暖かい。西部の海岸は寒流のベンゲラ海流の影響を受けて気温はそれほど上がらない。 雨季は11月から3月。東と西で雨の降り方が大きく違う。東部は季節風の影響で夏に雨が降るが、南西の海岸はいわゆる地中海性気候で、移動性低気圧により冬に雨が多い。降雨量は東側から西側に行くにしたがって少なくなる。 南半球なので北に行くほど暑くなりそうだが、内陸部は高原地帯であるためそれほど暑くはならない。 投稿時刻 19:37 南アフリカ共和国データ | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0) 国民 言語 公用語はアフリカーンス語、英語、バントゥー諸語(ズールー語、コサ語、ぺディー語、ソト語、スワジ語、ヌデベレ語、ツォンガ語、ツワナ語、ヴェンダ語)の11言語。国内で最も多くの人に話されている言葉は東部で話されているズールー語であるが国内人口比22%程度である。アフリカーンス語はオランダ植民地時代にオランダ語と現地の言葉が融合した言語で西部の広い地域で話されている。大多数の部族によって話されている言語というものがなく、各部族によって言語が異なっているため、イギリスの植民地時代に普及した英語が共通語的役割を果たし国会でも英語が使われている。 人種・宗教 人種の割合は黒人 (77%)、白人 (9.5%)、カラード(混血、9%)、インド系 (3%)。白人の多くは、イギリス系とアフリカーナーに二分される。 宗教は8割の国民がキリスト教で残りは、ヒンドゥー教、イスラム教、などである。 南アフリカ共和国におけるエイズの状況 南アフリカ共和国のHIV陽性率は成人の約20%(1999年)と大変に高く、2010年までに国民全体の平均寿命は40歳以下に低下すると予想されている。感染経路として成人は性交渉による感染が多く、子供は母親から胎児の時にうつされていることが多い。しかし、最近医療現場での注射針の使い回しや輸血が原因ではないかという説が出ている。 投稿時刻 19:35 南アフリカ共和国データ | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0) 南アフリカ共和国の年表 紀元前数千年 狩猟民族のサン人(ブッシュマン)と、牧畜民族のコイ人(ホッテントット:吸着音でわけのわからない言葉を話す者の意)が住んでいた。両方あわせてコイサン人ともいう。先住民族の一つ。 300〜900年代 北方つまり赤道に近い方に住んでいたバンツー系諸民族(いろいろな民族に分かれてるが、黒い肌をもち、似ている言葉を話すので、バンツー系とまとめて呼ぶ)が南に移動し、現在の南アフリカに住むようになった。この人たちも南アフリカの先住民族の一つである。 1488年2月3日 ポルトガルのバートロミュー・ディアスが南アフリカ南端、喜望峰にたどり着く。 1652年 オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックの船(ドロメダリア(らくだ)号、レイガー号、グッドホープ号など4隻)が南アフリカ南端のケープのテーブル湾に上陸し、四稜郭で五門の大砲を備えた「喜望砦」と呼ばれる砦を建設して中継基地とした。砦で身を守ろうとした相手は黒人系の人たちではなく、友好的な物々交換によって羊や牛を得た相手である先住民族のコイコイ人であった。 それ以来増えていったオランダ移民(ボーア人(ブーア人とも呼ばれる。以下ボーア人で統一))が住民から土地を奪っていって、ケープ植民地を作った。先住民族はボーア人の社会に吸収されて、カラードと呼ばれる階層を形成する。 1657年 オランダ東インド会社のボーア人は会社の仕事から自由になって入植することが認められ、ケープ(現在のケープタウン)に定住するようになった。ここから南アフリカの白人社会が始まる。ボーア人は南アフリカで生活を始めたが、原住民のコイサン人は彼らの下で働くことを嫌がったので、オランダの評議会は数百人の奴隷をケープに送っている。食糧補給基地であるケープにとって食料生産は最重要課題であったがなかなか苦労があったようである。 1688年ごろ ナントの勅令の廃止によって弾圧を受けたフランスの清教徒農民ユグノー200家族が国を捨て、ケープに移り住んだ。それにより、内陸への入植がすすむ。マレイ半島やマダガスカルから奴隷が連れてこられる。白人入植者とアフリカの土着民、アジアからの奴隷の間の混血が頻繁に起こる。 1779年 ケープで力ッフル戦争。ボーア人が農地拡大のために、バンツーのコザ族と戦闘。バンツー系民族(黒人)と白人との最初の戦争が行われる。この後、たびたび戦いが行われ、そのたびに黒人の土地が白人に奪われた。 1795年 強大な軍事力を持っていたイギリスがアフリカを支配するためケープを占領。この後、同じ白人のボーア人とイギリス人が対立するようになる。 1796年 オランダ東インド会社破産。 1814年 オランダからイギリスヘ正式譲渡され、イギリス領となる。イギリスからの大量移民や英語の公用語化、イギリス国教会の成長などが起きる。 1816年 南アフリカ北東部のズールー人が、大王シャカを中心にズールー王国を作った。 1820年 人種差別の撤廃(ホッテントット条令)。 1832年 イギリスの司法制度が持ち込まれる。田舎に住み、英語がわからないボーア人は、二等国民として差別される。自らをアフリカーナーと呼ぶようになる(以下ボーア人をアフリカーナーとする)。 1834年 奴隷制度の廃止。奴隷3万5745人が解放される。奴隷労働に頼っていたアフリカーナーの農業主は大きな打撃を受ける。反発したアフリカーナーが、牛車を連ねて内陸部に移動を始める。これをグレートトレックと呼ぶ。1834年のグラハムタウンでの有力者会議で決定され、1837年には移動の趣旨を述べた「フォルートレッカーズ宣言」が発せられた。